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東金堂、北円堂の弥勒如来坐像
国宝館を出て東金堂に行きましたが、こちらはいつも拝観できます。
神さま、ほとけさま、枕草子、ふるいもの、新しいもの
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国宝館を出て東金堂に行きましたが、こちらはいつも拝観できます。
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仮金堂の次に国宝館に行きました。
国宝館といえば、阿修羅像でしょう。
真冬のよく空いている時期に行くと、この像まで真っ直ぐに進みそこから動かない女性を何人もみかけます。
真剣に説教を聴く表情に引きつけられるものがあるのでしょう。
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興福寺の「国宝特別公開2006」に行ってきました。
再建中の中金堂回廊基壇横に白いテントがあり、そこで共通拝観券を購入します。
『後拾遺和歌集』は八代集のうちの4番めの勅撰和歌集です。
成立は応徳3年(1086)、白河天皇の勅により参議兼右大弁藤原通俊が撰歌したとされています。
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8日、「花祭り」なのでヒノキ花粉大量飛散の中を外出しました。
午前中は曇りで午後から晴天になると天気予報で聞いていましたが、いつまで経っても晴天になりません。
黄砂が花粉に劣らず、大量に飛んでいるからでした。
定子ファミリーによって一人前となった一条天皇ですが、父からの皇統を繋ぐには強固な後ろ盾が必要でした。
それは伊周の中関白家ではなく、道長の九条家でした。
当時の婚姻は「妻問婚」でしたが、天皇であっても妻側の父親の財力が必要でした。
『枕草子』の背景、没落していく中関白家と身の置き所のない中宮定子を生み出したのは「頭の弁」藤原行成、その人です。
清少納言と藤原行成の関係は、プラトニックな恋人関係であったという説や、いわゆる男女の関係にあったという説などいろいろあります。
しかし、私はこの2人は、性別を超えた友人関係であったと見ています。
清少納言の百人一首に採用された歌の製作秘話を訳してみました。
テキストには岩波文庫の『枕草子』第136段を使いました。
なお、この訳には私独自の解釈が含まれているのでご注意を。
ひとくちに『枕草子』といっても、平安時代から現代に至るまでの間に通ったルートが大きく分けて4つあるそうです。
伝わるルートが違えば書き写した人たちも違うわけで、その各々に写し間違いや元の原稿の状態が悪くて判別不可能な部分があったせいで、伝本によって意味が正反対な語句が生じたりしていています。