五月ばかり、月もなう(訳)
「ばかり」というのは「頃、くらい」という意味なので、朔や晦日に近いころか、あるいは梅雨の時期なので曇っている日ではないかと思います。
今日は旧暦五月二十九日、この蒸し暑くて曇っていて不快指数の高そうな夜だと思われる日の出来事を訳しました。角川文庫版『枕草子(下巻)』の132段です。
今回はだいぶ私の独自解釈を含んでいます。
5月ごろ、月が無くてたいへん暗い夜に「女房は伺候なさっていますか」と、何人かの声がするので、
中宮さまが「出てみなさい。尋常ではない言い方しているのは誰なの」と仰せになるので、
「もう、誰ですか。やたらに不気味で騒がしいのは」と言う。
何も言わずに御簾を持ち上げて、こそっと中に入ってきたのは呉竹だった。
「あらあ、この君なのね」と言ったのを聞いて、
「さあさあ、ともかく、このことを殿上に行って話そう」といって、そこに居た式部卿の宮の源中将や六位の蔵人たちが行ってしまった。
頭の弁はお残りになった。
「彼らは、奇妙な感じで行ってしまったなあ。
御庭の竹を折って、これで歌を詠もうとしていたら、『同じことなら職へ参上して、たとえば女房をお呼び出し申し上げて』
と来たのに、呉竹の名をとても迅速に言われて行ってしまうなんて、すごくおもしろいなあ。
誰の教えを聞いて、一般的な人の知識にないことを言うのですか」など、おっしゃるので、
「竹の名ということを気づかなかったもので。無礼だとお思いになってしまったでしょうか」と言えば
「ほんとうに、それは気づかないだろうね」などとおっしゃる。
まじめな話などを話し合って頭の弁がここにいらっしゃると、
「栽えてこの君と称す」と朗詠して、またさっきの方々が集まってきたので、
「殿上で言って誓った目的も遂げずになぜお帰りになってしまったのかと、不思議に思ってしまいましたよ」と、おっしゃれば、
「そういうときには何か答えたりするでしょうか。
かえって返事をしないほうがいいでしょう。
殿上でこの件について騒がしく話してしまったら、主上もお聞きあそばしておもしろがりあそばしましたよ」と話す。
頭の弁も一緒に同じことを繰り返し朗詠なさって、たいへん趣のある雰囲気だったので、女房たちと殿上人がめいめいに夜通し語り明かし、帰るときもやはり同じことを皆で朗詠して、左衞門の陣に入るまで聞こえた。
翌朝たいへん早く、少納言の命婦という人が主上からの御文を献上したときにこのことを中宮さまに啓上したので、局に下がっている私をお召しになって、「そんなことがあったの?」とお尋ねあそばしたので、
「わかりません。何のことともわからずにおりましたのを、行成の朝臣がうまくつくろったのでございましょうか」と申し上げると、
「つくろっているとしても」と、にっこりとお笑いあそばした。
誰のことでも、殿上人がほめていたなどお聞きあそばすと、そのように言われている人のことをもお喜びあそばすのもすてきだ。