二月、官の司に (感想)その2

枕草子・訳と感想

定子サロン没落のはじまりの時期のこと

一見すると、この「二月、官の司に」はただの行成とじゃれ合っている話のようですが、この出来事の背景を考えると少し重い気持ちになります。

行成が頭の弁であったのは長徳2(996)年4月24日から長保3(1001)年8月23日まで。
平 惟仲が左大弁であったのは正暦5(994)年9月8日から長徳2(996)年7月20日まで。
記述通りだったのは長徳2年4月から7月だけで、梅の花の季節ではありません。

ということは、どちらかの官職を意図的にずらしています(官職をずらすのは『枕草子』ではよくあること)。
行成の方が正しいとしたら、章段の時期は長徳3(997)年から長保2(1000)年です。
惟仲が正しかったら、清少納言の宮仕え開始から長徳2(996)年までです。
有力なのは長徳2(996)年説です。

長徳元(995)年4月に藤原道隆(中宮定子の父)が薨去、5月藤原道長(道隆の弟)に内覧の宣旨。
このあと、道長と藤原隆家(中宮定子の弟)の従者が闘乱したり、藤原伊周(中宮定子の兄)が道長を呪詛したという疑惑があがったりして、中関白家の凋落が始まります。

翌2年の正月、伊周・隆家兄弟が花山法皇襲撃事件を起こします。
2月11日、蔵人頭(藤原斉信)が公卿に「伊周・隆家の罪名を勘申せよ」との勅命を伝えました。
4月、伊周と隆家の配流が決まりました。
しかし彼らはそれに従わずに中宮定子の御所に逃げ込み、大捕物の末5月に配流され、定子は恥辱と悲嘆から髪を切って出家しました。

あえて無知を装う

長徳2年の2月はこのように、定子サロンの激変が始まった時期でした。
清少納言としては、理想的な貴公子である伊周が罪人となることなど受け入れ難かったでしょうし、そんな悲しい月に行なわれる公事なんて、正しく『枕草子』に残したくなかったのではないでしょうか。

しかも、定子は列見で供された餅餤に対するお礼の作法を知りませんでした。
惟仲がそれについて詮索するので、清少納言はしらをきって、その場を逃れました。

それで『枕草子』を執筆したさい、私は列見はおろか釈奠すらよく知りません、と無知を装ったのでしょう。
当時の女流日記文学では、自分の行動や考えを突然ぼやかしたり忘れたかのように書くことがあります。
清少納言もそれにならったのでしょう。

なお、惟仲は定子の崩御後、勅命により葬送の雑事を執り行ないました。

2010年3月28日枕草子・訳と感想

Posted by 管理人めぶき