三条の宮におはしますころ(感想)
馬柵越し
京都検定の試験勉強で和菓子の歴史の本などを見ていたのですが、「あをざし」についての記述を見て、どうしても『枕草子』の「馬柵越し」の章段を調べたくなりました。
「あをざし(青差)」は「煎った青麦を臼でひいて、縒った糸のようにした」国産のお菓子と考えられています。江戸時代にはそのようなお菓子であると文献に残っていますが、平安時代の青差がそうであったかはわかっていません。
清少納言が中宮に申し上げた「馬柵越し」とは、平安時代中期に編まれた歌集『古今和歌六帖』の
ませ越しに麦はむ駒のはつはつに及ばぬ恋も我はするかな
〔馬柵(目の荒い低い柵)越しでは、馬は口が届かないので少しずつしか麦を食べられない。そんな届かない恋を、私はしているのだなあ〕
という歌に由来すると考えられています。
媄子(びし)内親王を懐妊して、つわりで食の細っている中宮に目先の変わった食べ物を献上した清少納言の自慢話の一つ、と解釈されています。
私はその解釈に違和感を持っていました。
定子は清少納言が想定した恋歌を引用して答えていないからです。
いつもの定子なら必ず機転がきくはずです。
永遠に気高く美しい人
では、定子は誰に返歌したのでしょう。
私は青差をくれた人への返歌だと思います。
そのくれた人は、一条天皇だと考えます。
菖蒲の積まれた輿は、宮中の縫殿寮から献上されたのでしょう。
角川文庫版36段にそういう風習だとあります。
これは、脩子内親王と敦康親王、そして定子サロン全体へ贈られたものです。
しかし、輿はもう一つ献上されているように読み取れます。
縫殿寮からのものよりもっと美しい薬玉。
そして一緒に青差が。
これが、一条天皇が個人的に中宮のために用意した輿だと思います。
青差は、食の細った定子を気遣い、何か口にして欲しいと願ったため。
入内した彰子と道長という「馬柵」があって会う事もままならぬ自分を、麦が食べられない馬に例えたのでしょう。
清少納言はそれを読み取り、婉曲的に伝えました。
定子は、一条天皇はずっと以前からどんな時でも変わらず私を愛し続けているのだ、という歌を詠みました。
それを、清少納言は「いとめでたし」と締めくくっています。
これは定子についての日記的章段の最後の記述と考えられています。
『栄花物語』では媄子内親王を懐妊してからの定子は、気分が沈み、泣き暮らしていたと書かれています。
無事に出産を終えることはできないと、敦康親王を連れて参内したとき一条天皇の前でも涙が止まりませんでした。
その定子サロンで、清少納言はりりしく立ち回り、昔を懐かしんで立ち寄る公達に堂々と応対していました。
彼女にとって、中宮さまはやはり気高く美しい存在なのです。