五月ばかり、月もなう(感想)

枕草子・訳と感想

苦しい立場の中宮

この章段の出来事があったのは長保元年5月説が有力ですが、そうだったらこの章段の背景も相当重苦しいです。

この年の2月に藤原道長女彰子が着裳し、入内の準備が進んでいます。
11月に定子は平 生昌宅で敦康親王を出産していますが、逆算すると5月にはすでに懐妊が明らかになっています。

この当時、落飾したにも関わらず天皇の寵愛を受けている定子への批判はすさまじかったようです。
6月に内裏が焼亡しますが、藤原行成宅を訪れた大江匡衡(赤染衛門の夫)が「内裏の焼亡は中宮のせい」と話しています。
(ちなみに、その話を聞いた夜、行成は蔵人頭を辞める夢を見て、翌日辞表を提出しています)

誰?

そんな針のむしろで暮らしているかのような定子サロンへ、呉竹を持ってきた式部卿の宮の源中将たち。
応答如何によっては、嘲りの材料ともなりかねません。
梅雨時で蒸し暑く、中宮さまは妊娠初期のせいもあってかご機嫌が悪い。
清少納言は定子サロンを背負って応対したのでした。

そこでポロッと出た「この君」という言葉。
中宮さまの「誰なの」というお尋ねに「この君」と答えたのですが、これが呉竹の異名なのでした。

「栽えてこの君と称す」は円融天皇のころに藤原篤茂の詠んだ詩、「晋の騎兵参軍王子猷 栽ゑて此の君と称す 唐の太子賓客白楽天 愛して吾が友となす」からきています。
のちに藤原公任編の『和漢朗詠集』に収められるくらいに、広く人々に歌われていたのでしょう。
源中将たちは清少納言がこの詩を引いて答えたと思い、ぐうの音も出ずに退散したのでした。

行成の応援

いっぽう、その場に残った行成は清少納言に竹の名のつもりで言ったのかと確認しましたが、意図しないところでダジャレを発してしまった清少納言は否定しました。

ここで私は清少納言が、源中将たちがさっさと退散してしまったために自分がとんでもない失態をしてしまっただろうかと不安になって、行成に「今ごろあの方々は私のことを、無礼な応対をする奴だと思っていらっしゃるのでしょうか」と尋ね、行成が「いや、彼らはダジャレだってことに気づいていないだろうよ」と答えたと解釈しました。

歌詠みが苦手な行成が「歌を詠もう」と盛り上がっている人たちに混じっていますが、定子サロンに何かがあってはと心配してついてきたのかもしれません。
源中将たちを追って殿上に戻らなかったのは、本当に「栽えてこの君と称す」が有名な一節で、誰もが「この君とは呉竹のこと」と結びつけるのが一般的だからなのでしょう。

でも念のため、源中将たちと殿上に戻ったあと、清少納言の手柄として吹聴したようです。
それを主上から聞いた少納言の命婦が中宮さまに啓上したのでした。

この章段はお付きの女房にうれしい事があると、中宮さまは一緒になって喜んでくださるお方で、「をかし」と締めくくっています。
内裏にいたころと同じように一条天皇と中宮さまの交流のお役に立てた喜びと、行成も一緒に定子サロンを守ってくれた喜びと、無事に危機を脱出した安堵感が、「をかし」の後から伝わってくるような気がします。

2010年7月13日枕草子・訳と感想

Posted by 管理人めぶき