『枕草子』の背景 その1
藤原行成
『枕草子』の背景、没落していく中関白家と身の置き所のない中宮定子を生み出したのは「頭の弁」藤原行成、その人です。
厳密にいえば、藤原道隆の死後、中関白家を支えるべき藤原伊周・隆家兄弟にそれほどの才覚がなかった(そのうえ自滅した)ため、藤原道長に付け込まれてそのような事態となりました。
また、皇統を維持するためには政務に長けた道長の才覚と財力が必要だったので、一条天皇も彰子立后に逆らえませんでした。
せめてもの現実への反抗が、出家した定子を寵愛することでした。
しかし、それがまた定子を追い詰め、命を短くする結果にもなってしまいました。
「典型的貴族官僚」といわれ、藤原道長のイエスマンになって、自らの出世と保身に躍起になっていたといわれる行成。
彼は、藤原氏の主流の九条家の氏長者、伊尹の孫です。
しかし、伊尹は摂政になってすぐに死去、主流は伊尹の弟の兼家からその長男の道隆へと流れていってしまいました。
しかも、伊尹の息子たちもまた早世します。
行成の父、義孝も21歳の時にわずか2歳の行成を残して死んでしまいました。
行成は父方の祖母、母方の祖父母や親族を後見とし、期待を担いつつ愛情もいっぱい注がれて成長しました。
行成の恵まれていた点は、父方の祖母が醍醐天皇の孫であり、叔母が花山天皇の母であったため、位階がスムーズに上がっていったことです。
しかし、官職が位階に伴っていませんでした。
彼の出世は源 俊賢による蔵人頭への推挙以降です。
一条天皇
一条天皇は生まれた時、父の円融天皇と叔父の冷泉天皇が本流を奪い合っていました。
冷泉天皇の方に先に親王2人(のちの花山天皇と三条天皇)が生まれていたので、一条天皇は円融天皇の期待を背負っていました。
しかも、父と母(東三条院詮子)は仲が悪く、子供は一条天皇だけで、天皇の外戚になりたい母方の祖父、藤原兼家の期待も大きいものでした。
そして、花山天皇が策略により譲位させられ、一条天皇が7歳で即位しました。
のちに「聖代」「英主」と称えられましたが、その御世は円融帝の皇統を繋ぐためのものでした。
母の東三条院詮子は、慈愛あふれる母親というよりも、敏腕政治家というほうがふさわしい人物だったようです。
その能力は、彼女が見込んだ弟道長と、その娘の彰子に受け継がれていきます。
一条天皇は愛情に包まれることなく育ちました。
逆に、中宮定子は愛情あふれ、機知に富んだ女性でした。
正反対の姑と嫁がうまくいくわけがありません。
一条天皇は定子入内後、彼女と彼女の父、きょうだいらによって初めてアットホームな環境に身を置き、安らぎを得、「英主」となるべく教養を叩き込まれました。