第54回京都非公開文化財特別公開
京都古文化保存協会から、「第54回京都非公開文化財特別公開」について発表されています。
期間は11月1日(木)から11日(日)までです。
ただし、開催日時などは場所によって異なり、公開予定が変更される可能性もありますので、京都古文化保存協会のサイトで確認してください。
今秋は、常連の社寺を含めて、京都市の東側が熱いですね。
近頃は内外の観光客からの京都の人気がうなぎ登り中なので、移動手段に市バス・京都バスを利用すると、時間が読めなくなります。
訪れたい場所の近くまで鉄道を利用して、そこから歩かれることをおすすめします。
哲学の道沿い
哲学の道の北端からご紹介します。
南禅寺は哲学の道の南の出発点にあり、無鄰菴もその近くです。
白沙村荘 橋本関雪記念館
10年ぶりの公開です。
白沙村荘は、大正から昭和初期に京都画壇で活躍した日本画家、橋本関雪がアトリエとして造営した邸宅です。
現在は橋本関雪の作品を展示する美術館として使用されています。
広大な敷地に、大正から昭和の建築物が配置され、地泉回遊式庭園は国の名勝に指定されています。
通常非公開の持仏堂と、大画室存古楼二階望楼が公開されます。
存古楼二階望楼は、一般には初公開となるそうです。
持仏堂には、関雪が収集した古仏や古美術品が安置されています。
期間中、「創立60周年記念 京都伝統陶芸家協会展」が開催されています。
法然院
講堂はふだんは講演会やコンサートなどで公開されていますが、伽藍は非公開です。
その伽藍が、毎年春と秋に、それぞれ1週間のみ公開されています。
公開される狩野光信襖絵(重文)と堂本印象筆襖絵は、方丈にあります。
方丈は1687(貞亨4)年に後西天皇の皇女の御座所を移築したもので、堂本印象の58面の襖絵の主題によって各部屋に名前がつけられています。
光雲寺
13年ぶりの公開です。
寛文年間(1661年頃)に後水尾天皇とその中宮の東福門院和子(徳川家康の娘)が、大坂の摂津の安国寺を当地に移転させて再興しました。
ご本尊は東福門院の念持仏の釈迦如来像と観音菩薩像で、ほかにも東福門院ゆかりの品が多く納められています。
仏舎利塔には菊と葵が刻まれていて、東福門院の立場と心情を物語る品といわれています。
ほか、7代目小川治兵衛作庭の庭園(京都 名勝)も公開されます。
大寧軒(南禅寺山内)
12年ぶりの公開です。
南禅寺の塔頭寺院の金地院の隣にあります。
もとは南禅寺の塔頭寺院の大寧院でしたが、明治の廃仏毀釈で荒廃、藪内家第11代家元の薮内紹智(透月斎竹窓)が再興させました。
琵琶湖疎水を引き込んだ地泉回遊式庭園で、池の中に三柱鳥居が立ちます。
三柱鳥居といえば蚕ノ社が有名ですが、これを模倣したものといわれます。
茶人らしい、木々や苔の緑と石造物が調和したお庭です。
無鄰菴
初公開です。
明治・大正時代の政治家山縣有朋の京都の別荘で、1894(明治27)年から2年がかりで造成されました。
母屋・洋館・茶室と庭園(名勝)からなり、庭園は7代目小川治兵衛の作庭です。
公開されるレンガ造りの2階建ての洋館には、狩野派の障壁画があります。
ここで伊藤博文・桂 太郎・小村寿太郎らと、日露戦争の開戦について協議されました(無鄰菴会議)。
東山四条から五条かいわい
無鄰菴から琵琶湖疎水沿いを歩いて神宮道を南下していくと、青蓮院門跡の次に知恩院が見えてきます。
知恩院から建仁寺へは、東大路通から四条通に入り、花見小路を南下すれば突き当たりに建仁寺があります。
六道珍皇寺と西福寺も建仁寺の南側にあります。
知恩院 大方丈・小方丈・方丈庭園
大方丈(重文)と小方丈(重文)、方丈庭園(市指定)が公開されます。
大方丈の豪華な金箔の襖絵は、狩野尚信・信政筆によります。
また、大方丈の杉戸に描かれた、狩野信政筆「三方正面真向きの猫」はどこから見てもこちらを睨んでいるように見え、菊の間の雀が飛び去ったように見える「抜け雀」とともに、「知恩院の七不思議」に数えられています。
建仁寺 開山堂・浴室
11年ぶりの公開です。
開山堂、開山堂方丈、加藤文麗・原在中筆方丈襖絵、浴室(府指定)が公開されます。
開山堂は開山の栄西禅師の墓所(入定塔)です。
浴室は三江紹益によって建立されました。
待合・浴室・土間(火炊場)からなり、湯気で身体を温める蒸し風呂です。
久昌院(建仁寺山内)
12年ぶりの公開です。
長篠の戦いで武田軍を撃退した美濃加納城主の奥平信昌が、三江紹益を開山として建立しました。
信昌の祖父の菩提所「高松軒」が前身で、奥平家の菩提所となりました。
現存する建仁寺の本堂としては最古です。
六道珍皇寺(建仁寺山内)
7年ぶりの公開です。
ふだんもお参りはできますが、特別拝観時には寺宝展が行なわれ、特別ご朱印の授与もあります。
六道珍皇寺は、平安京の東の葬送地「鳥辺野」の入り口にあり、「六道参り」(精霊迎え)の寺として信仰されてきました。
また、小野篁が昼は朝廷に出仕し、冥界への井戸を通って夜は閻魔大王に仕えたとの伝説があります。
六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の別れ道とこの伝説が習合して、このあたりが「六道の辻」と呼ばれました。
西福寺
初公開です。
平安時代に、「六道の辻」に弘法大師が自作の地蔵菩薩を祀る辻堂を立てたのが始まりとされます。
檀林皇后が皇子の病気快癒を祈願したことから、「子育て地蔵」と呼ばれるようになりました。
江戸時代の「檀林皇后九相図」は、野ざらしの檀林皇后とされる遺骸が朽ち果てていくさまが9つの段階で描かれ、人の肉体の無常とはかなさを表わしています。