藤原行成
四納言のひとりであり、三蹟のひとりでもある藤原行成について調べ始めました。
『大鏡』によると、行成は「地獄の冥官も召すを延期したほどの正直者」だそうです。
藤原道長と一条天皇からの信頼を得る
体調を崩した藤原道長が、行成を使って一条天皇に左大臣を辞して出家したいとの奏上を行ないました。
行成は「ただちに」と言われ、夜遅くすでに横になっている天皇の御帳のそばまで行って奏上しました。
天皇はその申し出を固く拒みました。
そのような大事な話のメッセンジャーとして、行成は双方から信頼されていたようです。
藤原朝成の怨霊
あるとき、行成の祖父伊尹を恨んで死んだ藤原朝成の怨霊が紫宸殿で行成の参内を待ち構えているという悪夢を見た道長が、行成に「仮病を使ってでも参内するな」との手紙を書きました。
しかし行成はいつもより早く参内していたので、手紙が間に合いませんでした。
急いで参内した道長は、清涼殿で無事に行成に会いました。
彼は、その日はいつもと違うルートで清涼殿に上がったといいます。
道長から夢の内容を聞いた行成は、ぽんと手を打った後は何も語らず、早々に退出して祈祷をして、しばらく参内しませんでした。
美男子ではなかった?
父の義孝が早逝したため強固な後ろ盾もなかった行成ですが、源俊賢の推挙により、地下人から蔵人頭に大抜擢されたと書かれています。
蔵人頭(頭の弁)在任期間は、長徳元年(995)から長保3年(1001)まで。
角川文庫版『枕草子』第131段の「頭の弁の、職にまゐりたまひて」は長徳3年頃の話とされています。
すると、ちょうど中宮定子のサロンに通っていたのは朝成の怨霊につきまとわれていた時期と重なります。
面食いな『大鏡』によると、義孝はすこぶる美男子だったといいます。
しかし、息子の行成の容姿については何も描かれていません。
美しさは筆致の方に現れたのでしょうか。
なかなか行成は魅力的な人なので、もうしばらく調べています。