『枕草子』の背景 その2
皇統を守るのが天皇の使命
定子ファミリーによって一人前となった一条天皇ですが、父からの皇統を繋ぐには強固な後ろ盾が必要でした。
それは伊周の中関白家ではなく、道長の九条家でした。
当時の婚姻は「妻問婚」でしたが、天皇であっても妻側の父親の財力が必要でした。
その考えを、藤原行成が後押しする形で代弁しました。
そして、彰子は中宮に、定子は皇后になりました。
後には、定子の子の第1皇子敦康親王ではなく、彰子の子の第2皇子敦成親王の立太子が決まりました。
これを後押ししたのも、行成です。
話の筋道としては、それは正しいです。
でも、人間の情は理屈ではおさまりません。
定子たちと家族でいたかった一条天皇
一条天皇は母の東三条院詮子の崩御後すぐに、行成は敦康親王に、源 俊賢は媄子(びし)内親王に奉仕するよう命じました。
母への哀悼の言葉は何も残されていません。
行成は蔵人頭として定子の崩御まで仕え、敦康親王家別当として親王の逝去まで勤め上げました。
臨終近い一条上皇(病が重くなってから、三条天皇に譲位しています)は行成を呼び、水を飲ませてもらいました。
そのとき「最もうれしい」と言いました。
そして行成に「私は生きているのだろうか」と言ったのが最後の言葉となりました。
上皇の辞世の歌が、『御堂関白記』(道長の日記)、『権記』(行成の日記)、『栄花物語』『古事談』『新古今和歌集』に収められていますが、どれも言葉の配列が微妙に違います。
『権記』以外はみな、中宮彰子に向けた歌と記しています。
一条上皇はそれまで一首も彰子にあてた歌を詠んでおらず、これが最初で最後の歌だとされています。
しかし、行成だけはこれは定子にあてた歌だと解釈しています。
几帳面な彼はちゃんと日記に「皇后宮(=定子)」「中宮(=彰子)」と書き分けているので、この箇所だけ書き間違うはずはありません。
意識がなくなる前に、行成がそう確信できる話を交わしていたのでしょう。
藤原行成も一条天皇も、中世において「次代に繋げなくてはならない自分」を意識して生きていました。
そのために、私的な情は封じていたのでしょう。
しかも、どちらも臨終近くなるまで出家ができませんでした。
すなわち、この世に逃げ場はありません。
二人は「ともに戦った仲」だったのです。